昭和52年03月19日 秋永文男家霊祭
今日はお彼岸中だからでしょうか。今日はテレビで京都の薬師寺の、何とかという若いお話の上手なお坊さんがおられますね、あれは何とか言う高田高胤か、あの人が今日は話をしました。こんなに厚い本をそれを地獄の事を、七段階か八段階に分けて書いてあるお経文です。まあそれを聞かせて頂きましたら、ほんとに身の縮むような陰惨な情景の絵を見せながら、説明して一番軽い所から二つ、三つを説明しておりました。
その一番軽いというので、とにかく、一億二千万年苦しまんならん。驚いたね実際これを、それをまことしやかに、例えば一つの経文にしてある、その仏教がどんなもんであるかと言う事それだけでも、分ると言う感じがしたんです。それがね一番軽いその罪で、とにかく人間がその降り立ったら、その鉄の爪でかきむしられて、そして肉がとれてしまうまでかきむしられる。
その後にまた肉がでけると、またそれを繰り返し、繰り返し一億二千万年しなきゃ、あの地獄から出ることはできない。それはもう一番軽いのがそれです。それがなら原因はどうかというと、あの性行為の乱れた人、特に三角関係なんかだと、言うなら女関係なんかで非常にろくそなか人達、そういう人達が落ちるところが、一億二千万年という間、長い間、そういう苦しみをうけにゃならんと言う事。
もうとにかく人間の、みぃんな地獄に落ちんならんという感じですよね、まぁそれをほんととも思わんし、またそれがどうと言う事は思わんけれども、ほんとにその信心によって、人が救われるとか助かるとか、御霊が助かると言う事は、そんなに難しいことではないけれども、助かろうとしなかったら、成程千万年も一億年も救われんなり、助からんままと言う事にも、しかしなりかねないでっすよね。
魂の助かりと言う事は。宗教というのは、そういうのに救いの道を、作っていくというのが宗教である。これは生死を通してあの世この世を通して、助かって行けれる道を、いわば解き明かしていくのが宗教。と言う事なんですけど、今日ちょうどもう丁度三時の研修を終わっておるところへ、久富先生ところの二番目の、望さんがお礼にでてきて、いつも日曜たんびんに、親子三人でお礼に出てくるんです。
今日は日曜でもないのに、一人でお参りしてから、どうしてかて聞いたら、もう先生私はもうそれこそ自分の運命が変わるだろかと言う位に、あのモヤモヤする事が会社ん中であった。それでもう僕今日は大体はあの一緒お参りしてくる、今日はお参りさせて頂いて、そこの所までお参りした時に、一生懸命研修があっておった。そして親先生が一生懸命説いておられるのを聞いてから、胸がすっきりしましたというお届けをした。
だから助かると言う事はそう言う事なんです。けれどもならそれが今、おかげを頂いて今度立派な普請をして、そして今度お神様の部屋まで一部屋作って、と言う様な計画のもとに、いま話が段々土地も買うたし、家もその建てるようになってるわけです。そういうならもうおかげの寸前にあってもです、その人の運命が変わるような問題が起って、いま、ここへちょうど出らして頂く前も、あのそれこそ運命が変わるか、変わらないかと言った様な事で。
二日市、二日市じゃったか、飯塚、飯塚だったかなあの。大橋とあの御本部で研修ん時に一緒だって、合楽の話を聞いておったから、そのやって来たんですけど、丁度あんたおかげ頂くばい、今日丁度霊祭が三十分、三、四十分遅れとったから、あんたのことお会いがでけるけれども、でなかったら会いも出来なかったじゃないの、というてまあそれこそ、運命の岐路に立っているんですよ。
そげなことがそこに腹が決まって、ならこのことであんまり話がうまいが、だまされやせんじゃろかと、だまされたって良いじゃ無い神様にお願いをして、神様がだまされなさるもんか、あの、神様には、とにかく家庭にどういう知恵者でも、どういう人でも神様には勝てん、という信念を作って行く事が信心だから、そんなことは問題にせずにいくようにと言う事を、ちょうどここにでる前です。
もう出るギリギリまでお話ししておったんですけれども、そこにあの言うならば、ほんとに生きた人間が助られる道というか、ほんとになら御霊の世界にある魂でも、なら遺族の者の信心のいかんによって、救い出すことも助けることもでけるという、おかげを頂いて、例えばそんなら私は望さんが、くる時に何をもう繰り返し繰り返し、私が今日うちの修行生の方達に、もうほんとに繰り返し繰り返し、話しておった事なんです。それを繰り返し繰り返しそこで聞いておってから、翻然として胸が開けた。
というのはあのね、昨日これもテレビであの子供に対する、なんかあの子供にニュースというのが夕方ありよろうが、あれで昨日その説明しとるのが、子供に対して自然界の話をしておる、自然界のなかにはね、もうそれこそもう千年かかっても、万年かかっても、丸うせにゃおかんという働きが一杯なんだ。それは植物にだって小動物にだって、勿論人間の上にはなおさらのこと、そういう働きがあっておる。
もう何千なんどがしこかかったかわからんで、大きな岩の中でそのくぼみに入って、小さい石がこうこう回って、してそれが丸くなって、角が取れて丸くなるという、言った様な動物なんかでもね、あのこう、高いとこから落ちたりするときには、丸くなっておる怪我せんで、もう自然はね、そういう働きかけを小動物の上にでも、しておるんだという話を、だからそう言う事なんか、ちょっと本でも読んだ人ならば、自然界にはそういう、働きがいつもあっているんだ、と言う事は誰でも知っているんです。
なら今の金光教でいっておるその、自然の働きを尊重するとか、天地自然の働きと調和を作っていくとか、それが人間が幸せになることだというふうに言われる、誰でも知っておるけれども、調和しようとしない、調和しようとするためには、ならどういう道があるのか、なら自然界には一切のものを、丸くしていこう丸くしていこう、という働きがある。それをいうなら喝破されたのが、教祖金光大神いうならば、おかげは和賀心にある、とこう説かれた。
何千年も何億年も、助かることの出来ないほどしの、因縁とか罪とか例えば、そう言う生前に乱れた、いうならば行為をしておったものは、一億二千万年も出来りゃその身が、鉄の爪で掻き裂かれなければならないほどしのことを、繰り返し繰り返しして、一万二千年しなければ、だからもっと重い罪が七段階、八段階あるわけです。一番最後なんかはもう、絶対に助かる事のでけないというその地獄がある。
と言う事をこれはこの本を基にして、お話しをするのですから、これを信じて聞いてくださらなければ、と高胤さん言ってました。そういうもうなら、何千年という伝統を持っておる仏教が、いうならそういう、天文学的な数字を使って、微にいり細にわたって、いうなら、御霊の世界とか、地獄の世界とか、極楽の世界とか人間の生き道、と言った様なものを説いて説いて、解き明かしておるけども、これでは助かることが出来ないと言う事が、この一部だけでも分かるですね。
人間は仏教で助かることは出来ない。キリスト教で助かることは出来ない。ほんとに金光教の教祖が喝破された、いうならば天地自然の中には、例えば特に人間氏子を人間氏子と万物の霊長と呼ばれ、氏子と呼ばれその詫びれば許してやりたいのが親心といわれ、しかもこう言う幸せの道があるんだぞと、その道を解き明かされたのが教祖様。それをなら、どう言う所に芯が置いてあるかと言うと和賀心。
和らぎ喜ぶ心、いわゆる真ん丸い心。だから自然界にはそういう働きがあっておる。だからそういう働きに便乗することが信心なんだ。なら便乗することはどう言う事なのか、それをなら合楽では、成り行きを尊ぶとか、成り行きを大事にするとか、全ての事柄に「御」の字を付けて頂いていくという、それがどういう荒波であろうが、荒風であろうがどういうきついことであろうが、それが自然界が私共に、いよいよ丸うなれ円満になれというて働きかけて下さっておる働きだとして。
合掌して受ける所に私共の心が、いやが上にも丸うなっていく。それこそ喜代司さんじゃ無いけども、文男先生じゃ無いけれども、とてもとてもおかしゅうして、腹だん立てられんと言う様な、心の状態が開けてくる。しかもそれが段々偉大な和の心、喜びの心というのは、もう限りなく進められていく。自然界にはそういう働きがあっておるんだ、それに便乗するその手立てをね、優しゆうやろうと思えば子供でもでける、しかも楽しゅう有り難う、しかも愉快に出来るんだぞと、説いておるのが今の合楽理念だ。
合楽理念を体得すると言う言は、その様に素晴らしい事なんだという、話を私がそれも今日は、どういうもんか、もうその事を繰り返し繰り返し、一時間あまりね、だからもう合楽の信心はね、もうこれの喝破なんだと、それを知ってると言う事は、なら子供んでも話せるほどしに、見やすい一つの道理なのだから、知っとるけれどもならそういう幸せになるとの手立てとか、なって私を見て下さいと言う人達が少ない。
自然のそういう働きに、なら私どもがゆだねると言うか、それに便乗すると言うゆだね、便乗する手立てを優しゅう、楽しゅう有難うそれにならせて頂こうという、働きいわゆる和賀心、なら和賀心の前には、それこそ一億年も許されないような罪でも、たちどころに許されることのできれる、私はその一億年と言うのが本とか嘘か分からんけれどもです、確かになーにも知らずにです。ただなら私が頂く所のあの世というのは、暗黒の世界であって真っ黒い世界であって。
この世生前で心に光を頂いていかなければ、どうにもし様のない世界なのです。どうにもし様のない世界で、なら一億年も二億年もやっぱり、どうにもし様のないでおる御霊が、沢山あると言う事も、これはうそではないと言う言が分かります。だからそれを救う者、それを助ける者はそこに目覚めた、なら遺族の者が救い助ける以外にはないのです。昨日も久留米の佐田さんが、晩の御祈念の時に必ずおかげの泉を、御霊様の前で繰り返し繰り返し読まれるともう。
おいさみがだけれどもこちらが感動が沸いて、どうにも仕方が無い、いうならおかげの泉というのは、いまいう人間が助かっていく、魂が助かっていくしかも、その手立てをあらゆる角度から説いてあるのがおかげの泉。だから魂が躍動するほどしに、喜ぶはずだと言う言が分るでしょう。だからもうこれはどうでも、なら私ども自身が天地自然の中には、そういうこれは人間だけではない一切のものを、丸くしようとする働き、もう何もかにも、丸くしょうという働きがある。
それを岩のように頑固にがつがつと、例えばもう血の涙を流しながら、なら難儀な苦労、難儀苦労をして年をとっていくに従って、頑固爺になったりこんにゃく婆になったりしていってるのは、そう言う所を信心で通らないから、その結果丸くはなれないのです。それをなら信心で、神様をこれによって丸くなってくれよ、これによって有り難くなってくれよと、いういうならば、私どもにそういう働きかけがあるけれども、そいういう働きかけを働きかけと知らなければ。
やはり一生ならいうなら、頑固じいさんでまたはこんにゃくばばさんで、終わっていかなければならない。そして御霊の世界のことは、それこそ見て来た者もなからなければ、なんにもない、ただ段々分かりえた者がなら、私がここでことは魂の世界は絶対あるんだと、魂の世界はあるしかも魂の世界はもう、暗黒だとだからこの世で、ささやかな光の一つも持っていかなければ、どうにも仕方が無いんだと。
そしてこの世で、本気で魂を清めるとか、改まるとか、磨くとかと言う事を覚えて、その魂が御霊の世界でも、やはり繰り返し繰り返し、魂の清まりを願っていく修行を、御霊ながらにしていく信心というものを、身に付けておかなければ、確かに私どもは、ほんとの、これよりも幸福になれないし、あの世にはなおさらの事だと言う言が、分るがで今日の御霊様の御二柱の御霊さまの、いうならば御霊様たちの場合なんかは、まあ言うとね、御霊さまがここにおられるならここの足元にね。
雪とも綿とも分からない様な、こう一杯積っとるなかに立っておられる。だからそれを元気な心で、ぱっとこうけやってでも、いけれるようなあの柔らかい物を、それを柔らかいものと知らずに、いわば自分は手がせ、足かせと言う事を言うでしょう。自由が利かない人のことを手かせ、足かせと言うが手がせではないけれど、足かせをはめられて要る様な、窮屈な思いをしておる感じ、しかもそれはあの人間でもそうでしょうが。
私のようなもんはもう、幸せになれんもう私は、もう違わんごつ地獄に行くじゃろう、もう私は自分で地獄にいくち決めておる人がおるんです。もう私は幸せになれん、と決めておる人があるんです。そうではないひとたび自分の心が開けていけば、もうすぐ幸せの道はそこにあるのに、ちょっと踏みやっていけば、おしけやって行けばここを出られるのに、自分の周囲に、そんな足かせがあるような、思い方をしておる、例えば御霊であったような感じがするです。
そして今朝から頂いた、あの高胤さんのお話じゃ無いけれども、それを本人としては、自分な地獄へいくことじゃ無いだろうかとさえ、思うとるような感じです。それを信心の雰囲気というか、いつもいうなら文男先生が、後藤の家の御霊様の上に、朝晩いうなら奉仕をさせてもろうて、何とはなしに言うなら、極楽ムードと言った様なものが、いつもその中にあるから、まあけれどもまだこの柔らかい雪とも綿とも分からないような感じに、まだ、自分はさいなまれているわけなんです。
そういうものにまだ自分の足元が一歩も外にでらることの出来ないような窮屈さを、感じておられる。そんな感じの御霊様達を、あのそんなことじゃ無いよ、ほらちょっとここへ出て行ってご覧、すぐ動きが取れるんだが、というてなら私の今日のご理解を、この話を聞いてくださっておることだと、私思うです。だから人間のでも心が開けるとか、悟りが開けると言う事は中々なことです。
話を聞いて一通りのことが分かっても、翻然としてとして分かると言う事は、やはり信心ならなければ、翻然としたものが生まれてきません。そしてなら遺族のものが、翻然として分かるとこを分からせてもろうて、翻然とした心でお互いに奉仕をさせてもろうて、御霊様がいよいよ、楽な御霊安心な御霊、喜びの御霊として、おかげの頂ける手立てをね、作らせて頂く、というそう言う様なひとつの手立てが、にもなるわけです。
ですからほって置くとまた、元の殻に収まってしまうような感じがする。だからこれから、有り難いほうへ有り難いほうへと、進んでもらえれる、生き方を遺族のものが、やはり示していかなけきゃならん。そういうまた責任がある。信心させて頂いておるものは、そういうおかげを頂かなければならん。この世には天地の親神様が、人間だけではない魂の世界にある御霊たちでも、救わずにはおかん、幸せにせずにおかんという働きだけしか、あっていないと言う事。
それを分かれせて頂くと言う所に信心がある。あれもおかげである、これもおかげであるという、そのおかげの世界を自分の心の中に、開いていく手立てはもちろん、私ども限りなくしていかなければならないが、いうならば家の根であるところの、先祖のいうなら、それこそ限りない御霊たちがそれにつながって、ずうっと助かりの御霊、言うなら後藤なら後藤の家の御霊の全部がね。
いうならば、極楽に一緒に住めれるようにな、おかげの世界を目指さなければならない。それには、まず私達が自分の心の中に、自分の周辺に、そういう有り難い世界を開いていくということが、それを開いて行けれるものは、真心、真、自然が求めたもう、いうなら、自然との日頃の対決を、対決とせずに合掌して受けていくという、そこに合楽世界がある。拝み合いの世界が開けてくるのじゃないでしょうかね。